をハりや今昔

Text: Aya Ogawa / Photo: Ariko Inaoka, Shuhei Tonami

室町時代、尾張国から
京の都にやってきた菓子屋が、
そば餅の「本家尾張屋」になりました。

本家尾張屋には菓子屋と蕎麦屋、ふたつの大切な柱があります。“やんごとなき御方より召されて”と文献に残るように、室町時代に京都にのぼった尾張屋は、以来菓子屋として550年以上もの長きにわたり、家業を守り、育ててきました。代表銘菓「そば餅」が誕生したのは、江戸時代末期から明治時代にかけてのこと。十三代目*当主が考案したといわれます。てっぺんに黒ごまを振ったそば餅は、そば粉を使った菓子の先駆けだったようです。すっきりとした甘味、素朴であたたかな味わいが愛され、京都では「そばのお饅頭といえば尾張屋さん」と親しまれてきました。十四代目考案の蕎麦板は、蕎麦の麺打ちをするような技法で作られる当店ならではの蕎麦菓子です。十五代目考案のそば焙煎わらび餅、そして蕎麦ぼうるは、京都のお菓子の定番です。当代の十六代目も新たに蕎麦かりんとうを考案。今日の尾張屋の蕎麦菓子の顔ぶれは、代々が手がけてきた歴史でもあるのです。

* 江戸時代中期、1702年に蕎麦屋もはじめた先祖である伝左衛門を一代目とし、先代まで襲名しておりました。十六代目は初女性当主とし本名の稲岡亜里子で務めています。

江戸時代、禅宗のお寺に求められて
京都の蕎麦は広まっていきました。

江戸では町民に親しまれた印象の強い蕎麦ですが、京都では点心のひとつとして、寺院の食文化に深く根づいていました。特に禅宗では心身を健全に養う食べ物として、瞑想や修行をする際に、ひと握りの蕎麦粉を携行したといわれています。

古くはお寺で製粉と製麺を行っていましたが、次第に「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋がそれを請け負うようになったといわれています。尾張屋も菓子屋として御所や禅宗のお寺から蕎麦の注文をたくさんいただく中、江戸時代中頃、1702年に初代が菓子屋とともに蕎麦屋を開業し、その後、御所を出入りする『御用蕎麦司』(宮内庁御用達)となりました。

十四代目、十五代目当主が、
尾張屋のもうひとつの柱「蕎麦屋」
を大きく育てました。

尾張屋の暖簾に染め抜かれた「寶(たから)」のひと文字は、蕎麦を意味する「宝来(ほうらい)」という言葉から来ています。室町時代、金箔職人が部屋に散った金箔を集めるために蕎麦粉を撒き、篩にかけて金箔だけを集めていました。金=宝を集めることから「縁起が良い」ということで、蕎麦は宝来と呼ばれるようになり、大晦日に蕎麦を食べる風習が広まったといわれています。尾張屋の看板メニューである「宝来蕎麦」は、おめでたい食べ物として、明るい気持ちで蕎麦を召し上がっていただきたいと、戦後に先先代の十四代目が考案しました。

本格的な料理屋としてメニューも支店も増やし、多くの方が蕎麦を楽しめるような店に育てた十四代目と十五代目。京都市内に3軒の店舗を持つようになっても、素材はすべて一等のものを選ぶ姿勢は変えませんでした。昆布は利尻昆布、蕎麦粉は北海道音威子府産、そして大切なのは「水」です。何よりも水にこだわった十五代目は、京都髙島屋7階に店をつくる際に、50メートルの深さの井戸を掘って、地下水を汲み上げることを条件に出店したほど。今も本店と同じ水質で出汁も蕎麦もお出ししています。蕎麦を通じて町の人をあたたかく見守るふたりの思いが、「寶」の文字には込められているのです。

自然が教えてくれる大切なことを、
「SOBA」を通して伝えていきます。

現当主の十六代目・稲岡亜里子は、写真家として世界各地の人と自然に触れる中で、日本の外から京都の自然、家業の蕎麦や蕎麦菓子を見つめてきました。そして、大きく世界が変わろうとする中で、魂が震えるような、これからも大切にしていきたい光を、身近な「SOBA」の中に発見しました。禅僧が瞑想の時に携えたほど、人々の心身を癒し、養う蕎麦の力。先代がこだわり続けた自然に磨かれた水の力。そして素材ひとつひとつを丁寧に扱い、分けてくれる生産者やクリエイターとのつながり。室町時代から脈々と続く尾張屋は、自然と人とに守られながら大きな樹木のように育ってきました。大地の力、水の恵みで生まれる蕎麦や蕎麦菓子が、人々を養い、日々の暮らしの喜びとなるように。十六代目の尾張屋は、より地球と深い根でつながるような感覚を大切にしながら、京都という土地と『SOBA』という日本が誇る食への感謝を伝えてまいります。