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をわりや今昔

本家尾張屋のはじまりは菓子屋です。室町時代、応仁の乱の2年前にあたる1465年、尾張国から菓子屋として京都に参りまして商いをはじめました。蕎麦屋としてのはじまりは、江戸時代中期頃、京の禅寺で蕎麦切りが食されるようになったのがきっかけです。禅の修行僧により中国大陸から蕎麦切りがもたらされ、京都の禅寺でもつくられるようになりました。そのうち、寺ではまかないきれなくなったため、「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた市中の菓子屋が、蕎麦切りはじめ麺類の注文を受けるようになったようです。尾張屋も1700年頃、初代・稲岡伝左衛門のときに蕎麦屋をはじめ、多くの寺院に蕎麦をお納めしたといわれています。その後「御用蕎麦司*」として認められ、御所にも蕎麦をお納めしていました。以来京都の歴史とともに550年近くにわたり、人々の暮らしに寄り添う菓子屋・蕎麦屋として尾張屋は歩んで参りました。

*「御用司」とは御所への出入りを許されていた店の江戸時代後期の総称。明治期以降は宮内庁御用達と呼ばれる。

はじまりは菓子屋

約550年前に尾張国から旅してきた菓子屋が、そば餅の「本家尾張屋」になりました。

菓子と蕎麦、蕎麦と菓子。どちらも本家尾張屋の大切な柱です。
現在の店構えから「蕎麦屋」の印象を持つ方も多いと思いますが、先祖は菓子屋なのです。“やんごとなき御方より召されて”と文献に残っていますように、本家尾張屋は、室町時代に尾張国から京都に根づき、応仁の乱の頃から現在まで家業を守ってきた老舗です。
尾張屋の顔でもある代表銘菓「そば餅」が誕生したのは、江戸時代末期から明治時代にかけて、十三代目当主が考案したといわれます。かつては丸いものを総称して「餅」といい、その名残が尾張屋の菓名に生きています。ただし餅といいましても餅米や米粉を搗く粘りのある「餅」ではありません。小麦粉とそば粉を混ぜ、鶏卵や砂糖を加えた皮で小豆漉し餡を包み、天火で焼いた饅頭です。てっぺんに黒ごまを振った素朴なそば餅は、そば粉を使った菓子の先駆けだったと思われます。

シンプルな素材と味が愛され、京都では「そばのお饅頭といえば尾張屋さん」と言われるようになりました。
そば餅は、ちょっと贅沢なおやつとして、また行事の集まりに欠かせないお茶菓子として、京都の日常の風景に馴染んでいきました。特に夜伽よとぎ見舞い*の菓子として、重宝されました。今では当たり前になりましたが、ひとつひとつの饅頭を紙で個包装することを始めたのも十三代目でした。進取の精神に富んだ人だったようです。
口にすると、町や日常の風景が浮かぶスローフードのように、そば餅は京都の人々の記憶の中に生きています。
そば餅に加え、蕎麦板と蕎麦ぼうるの3種が尾張屋を代表する蕎麦菓子です。いずれもシンプルな素材でつくった素朴な味わいの焼き菓子です。そば餅・蕎麦板は本店の蕎麦を作るすぐ隣で製造しています。
日々の暮らしの中の小さな喜びである菓子を、これからも変わらずみなさまにお届けして参ります。
*仏事のお通夜に伺い、お悔やみを伝えること。

禅が育てた京の蕎麦

江戸時代、禅宗のお寺の需要から京都の蕎麦は広まっていきました。

「関東は蕎麦、関西はうどん」そう思われている方が多いのではないでしょうか。ですから「京都は蕎麦」というと驚かれるかもしれません。実は京都と蕎麦は禅文化を通じて強い結びつきがあり、その蕎麦を提供していたのは尾張屋をはじめとする菓子屋だったのです。
「蕎麦」という作物は古くから日本にありましたが、蕎麦切りという「麺」として食されるようになったのは、室町時代以降、製粉と製麺技術が広まってからと考えられています。13世紀、僧・円爾(のちの聖一国師)という僧が大陸の宋にわたり、菓子や麺類などを都に持ち帰ります。聖一国師が晩年に創建した東福寺には、宋から持ち帰った製粉機の図面が残されていて、蕎麦を粉にして練る技術が伝えられています。その後、寺でまかないきれなくなった製麺を、「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋に注文するようになったのではといわれています。
このように、京都では昔から寺院と蕎麦には縁があり、そこに菓子屋が関わっていたのです。尾張屋も菓子屋として京都に根づいてから、御所から注文をいただいて蕎麦をお届けするほか、寺院からも蕎麦の注文をたくさんいただいて参りました。
「蕎麦切りの発祥は信濃国」というのが通説ですが、もとは京都から伝わったのかもしれません。

尾張屋本店にいらした方の中には、お店の奥からお経を唱える声をお聞きになられた方もいらっしゃることでしょう。毎月本店には、禅宗のお寺からお坊さんがお見えになりお経を上げてくださいます。その後「点心」といいまして、お好きな蕎麦をお召し上がりいただくのが習わしになっています。
禅宗の寺院と尾張屋の関わりは江戸時代までさかのぼります。
多くの寺院から蕎麦の注文をいただく中、尾張屋が深いご縁をいただいたのは臨済宗の寺院でした。十二代目当主は特に信心深く、相国寺に参じて座禅に加わるなど禅宗に帰依したのです。以来相国寺・建仁寺・妙心寺さんとのご縁が続いていまして、月ごとに代々のご先祖様にお経をあげていただいております。また、大徳寺さんの利久忌をはじめ、数々の行事の折には「点心」として蕎麦を納めております。
関東、特に江戸では町民の食として親しまれて来た蕎麦も、京都では点心のひとつとして、寺院の食文化に深く根づいてきました。特に禅宗では瞑想時や、こもって修行をする際に、ひと握りの蕎麦粉を携行したとも言われるほどです。心身を健全に養う食べ物として、蕎麦は禅文化に不可欠のものなのです。

菓子と蕎麦を商う店へ

蕎麦=縁起の良い食べ物。「宝来」に込めた十四代目と十五代目の思い。

尾張屋は蕎麦屋としても京都で最も歴史のある店かもしれません。
江戸時代中頃の1700年ごろ、初代稲岡伝左衛門が蕎麦屋をはじめました。現在のようにさまざまなメニューをお出しする飲食店の顔が本格的に加わりましたのは、戦後のことです。
明治時代のはじめころ、尾張屋は綾小路室町東入ルにあった店舗を、現在の二条通車屋町下ルに移転しました。戦後になって周囲のすすめもあり、先先代の十四代目が本格的に蕎麦の料理屋をはじめたといわれています。先代の十五代目は伝統を大切にしながら、新たなメニューや素材を取り入れることに挑戦した人でした。店も当初は菓子を販売する傍らでお蕎麦をお出ししていましたのが、住まいの二階を店として改装するなど、飲食店のスペースが広くなっていきました。その後、十四代目と十五代目が京都中心部に三つの支店を出し、より多くのお客様に尾張屋の蕎麦を召し上がっていただけるようになりました。

二人が大切にしてきました考えに「宝来」という言葉があります。尾張屋の店のあちこちに使われています「たから」の文字。これは「宝」の旧字です。
かつて蕎麦は宝を集める縁起の良い食べ物として、別名「宝来」と呼ばれていました。室町時代のこと、金箔職人が仕事の後で、部屋に散った細かな金箔を集めるために蕎麦粉を撒いて、篩にかけて飛び散った金箔だけを集めていました。蕎麦粉が金=宝を集めることから、「縁起が良い」ということで「宝来」と呼ばれるようになり、大晦日などに蕎麦を食べる風習が広まったといわれています*。
おめでたい食べ物として蕎麦を召し上がっていただこうという十四代目の思いは、暖簾や器、マッチなどに「寶」の図案が使われていることからも伺えます。また十四代目が考案しました料理に当店を代表する「宝来蕎麦」があります。ぜひ一度、本店で宝来蕎麦をお召し上がりになってみてください。
*この他晦日蕎麦の由来として、蕎麦が細く長いので、長寿や一家の繁栄を願うためにいただいた、という説や、江戸時代の商家では毎月晦日(末日)の集金で忙しかったため、立ってでも食べられる蕎麦を晦日に食べた習慣が大晦日のみ残った、という説、そして鎌倉時代に博多で飢饉が起きた際の年の瀬に、承天寺で「世直し蕎麦」と称して、庶民に「そば餅」を焼いて配った説などいくつかの説がある。

京都の水と尾張屋

「寶(たから)」の味を支えている京都の名水。この地でなければつくれない味があります。

豆腐、湯葉、生麩。水質の良い地下水に恵まれている京都には、水に支えられている食べ物が数多くあります。
その筆頭はなんと言っても「だし」ではないでしょうか。
尾張屋の蕎麦だしも、京都の良質な地下水なしに語ることはできません。この町で商いをし、蕎麦をつくり続けられるのは、この豊かな水のおかげです。
京都は昔から地下水に恵まれており、北と東西三方の山から流れ込む地下水の埋蔵量は、琵琶湖の水量とほぼ同じともいわれます。御所の南にあたる車屋町二条下ルのこの地には、比叡山水系の地下水が流れています。現在地下50mまで掘った井戸から水を汲み上げ、一度麦飯石で濾過したものを日々のだしづくり、蕎麦打ち、菓子づくりに使っています。
京都の料理の命ともいえるだしには、利尻昆布が欠かせません。利尻昆布は清澄な味わいのだしをとることができますが、京都の地下水は硬度五十度で、その良さを特に引き出してくれるといわれます。尾張屋も、利尻昆布をはじめ、目近めぢか宗太鰹そうだがつお)、潤目うるめ、鯖節を調合し、優しい味わいのだしをとっています。

先代の十五代目当主は、水への思いが特に強く、大切にする人でした。本店に加えて高島屋店、四条店と支店を出店した時の条件は、「本店の地下水と変わらない水質でおだしを提供できること」でした。中でも、高島屋店の改装時には、先代の熱意を受けた百貨店の担当者の方が、本店と同じ比叡山水系の井戸水を店舗が入るフロアまで上げる決断をされたほどでした。四条店は井戸水の環境が整いませんが、本店から毎日おだしを運んでいます。おかげさまでどの店舗も本店と変わらない味をご提供することが可能になりました。
だしだけでなく、蕎麦を打つのもゆがくのもこの地下水を使用しています。肌がなめらかな蕎麦が打ち上がり、ゆがくと腰のある美味しい蕎麦ができあがります。
また、本店で製造する菓子にもこの地下水を使っています。良い素材を吟味し、腕の良い職人がそれを活かすことができるのも、まず良い水があるおかげです。
自然と一体になっているのが京都の料理の味。それを支えるのが京都の名水だといえるでしょう。

尾張屋を支える素材

地元京都の方々の「日常」に、ほんものを提供することが大切です。

特別な蕎麦をつくるよりも、京都の地元の方々に毎日召し上がっていただける、日常の味をつくることが尾張屋の蕎麦づくりの原点かもしれません。そのため、機械打で高い品質の蕎麦を毎朝製造しております。
ここで尾張屋の店でお出ししている蕎麦の素材をご紹介しましょう。
蕎麦に使う蕎麦粉はご縁のあった北海道・音威子府の生産者に契約栽培を依頼し、最高のものを使用しています。だしに使用する素材は、利尻昆布・目近めぢか宗太鰹そうだがつお)・潤目うるめ・鯖節と調味料のみで、化学的な素材を添加しません。
菓子にも、北海道十勝産の小豆と国内産の蕎麦粉を使用しています。
希少な材料を集めるのではなく、日々変わらない味をお客様に提供できるよう、そして安心して尾張屋の味を召し上がっていただけるように、生産者の方や問屋さんと信頼関係を築いて参りました。

十四代目、そして先代の十五代目の口癖は、「まず地元のお客様に愛される店にすること」でした。日々訪れていただける店にするために、「真面目につくり、儲けは少なく。より多くのお客様に食べていただく」という、よい意味での「薄利多売」の精神を大切にしてまいりました。
薄利多売ではありますが、使う素材も器の素材も、ほんものをお出しすること。そして安定して提供できる素材の仕入れ先と長いおつきあいをすること。当たり前のことかもしれませんが、良質な蕎麦や菓子を目指し、素材も器も吟味しております。
尾張屋本店と、京都中心部にある3店舗では、おかげさまで一日約1000食以上の打ち立て・ゆがき立ての蕎麦と、約2500個の焼きたてのそば餅をご提供しております。地元の方、お坊さん、観光を目的とした方から外国の方など様々なお客様がいらっしゃる尾張屋の客席は、京都の町の日常そのものだと感じます。

十五代目から十六代目へ

「自分の中には“京都の時間”が流れている」 写真家として世界を見つめる中で気づきました。

2014年、十五代目稲岡伝左衛門*の娘である稲岡亜里子が、本家尾張屋十六代目当主になりました。2009年に京都に戻ってくるまでは、世界各地を旅し、NYや東京をベースに写真家として生きてきました。現在は本家尾張屋当主として、そして写真家として、二つの顔を持ちながら、550年の歴史を持つ老舗の舵取りを始めています。
写真家として世界各国で充実した仕事をしながら、なぜ老舗当主になるために古都・京都に戻って来たのでしょう。その問いに稲岡亜里子はこう答えました。
「私は京都で生まれ、17歳の頃まで京都で育ちました。その後アメリカ合衆国に渡り、サンフランシスコとNYの学校でアートと写真を学び、プロの写真家としての活動をスタートします。1960年代にパリに留学していた母の影響が大きかったのかもしれません。海外での生活を通じて未知の世界を吸収したい、さまざまな人に出会いたいという思いを、子どもの頃からとても強く持っていました。
自分のルーツである京都へと意識が向いたのは、アイスランドで風景写真の作品を制作している時期でした。私はアイスランドの水・石・苔という荒涼とした自然に魅了され、特に“水”をテーマに撮影を行っていました。蒸発して空気にとけ、空へと上って雲となり、ふたたび雨として地面に落ちる。その循環の一瞬にシャッターを切りながら、見えないものの力を感じると同時に、その力に生かされている、とふと感じたのです。その感覚は私の中に深く眠っているルーツを呼び覚ましました。水・石・苔はまさしく17歳まで過ごした京都のお寺の庭などの風景に通じるものでした」

アイスランドの大自然と京都の寺院の庭。ともに小宇宙の中にいる、と感じた稲岡亜里子は、自分の感覚に“京都の時間”を引き継いでいたことに気づき、ルーツと向き合うために本拠地を京都に移しました。
本家尾張家の家業という、写真とはまったく異なるように見える仕事を同時に担うようになったのも、京都の老舗のものづくりと写真双方がクリエイティブで、未知なる世界を探求する作業であると気づいたからだったといいます。

2009年に京都に戻ってからは、短い時間でしたが、十四代目の祖父と十五代目の父とともに仕事をすることができました。
「味が一番の宝であること。しきたりではなく、時代に合わせた守り方や挑戦をしなやかに探ってきたからこそ550年の歴史があることをふたりから直接学ぶことができました。受け継いだ家業への姿勢を大切に、歴史を踏まえながら尾張屋を守り、京都とのつながりを探っていきたいのです」
京都の老舗の当主として、そして写真家として活躍する十六代目らしい本家尾張屋の時間が少しずつ刻まれはじめています。
*江戸時代中期の蕎麦屋をはじめたころから当主は稲岡伝左衛門を名乗り、そこから代々伝左衛門を襲名。十六代目は本名の稲岡亜里子で当主を務めている。